英文長文読解 短期集中 個別指導 

KVC Tokyo  英語塾

                               










































































































































































塾長のコラム 2019年6月20日  『主語の概念 B 膠着語と屈折語U』







主語の概念 B 膠着語と屈折語U



2019年6月20日 (2021年4月12日、アルタイ語の項を加筆)

皆様、KVC Tokyo 英語塾 塾長 藤野 健です。

前回に続きます。

以下、本コラム執筆の参考サイト:


https://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_language


https://ja.wikipedia.org/wiki/インド・ヨーロッパ語族

https://en.wikipedia.org/wiki/Indo-European_languages


https://ja.wikipedia.org/wiki/ウラル・アルタイ語族

https://en.wikipedia.org/wiki/Ural-Altaic_languages


https://ja.wikipedia.org/wiki/ウラル語族

https://en.wikipedia.org/wiki/Uralic_languages


https://ja.wikipedia.org/wiki/アルタイ諸語

https://en.wikipedia.org/wiki/Altaic_languages




日本語の文章構造:超初心者向けガイド(塾長和訳)


文章構造の英語 vs.日本語


 殆どの方は、日本語は文章構造が難しくて頭がこんごらがるものだと知るようになるでしょう。日本語が他の言語とは根本的に違っていることを考えれば全くもって理解できることです。ですが、日本語の文法は正しい視点からみれば実際には信じられないほど論理的なのが真実なんです。


 一般的には日本語の基本構造はSOV だと考えられていますね。主語−目的語−述語の順です(例:ワタシ−スシ−タベル)。この記述法は、SVO 構造に従う英語と比較するのを容易にします。しかし本当は、この2つの言語は全く異なる遣り方で機能するものゆえ、この様な比較は殆ど意味がありません。SOV のレッテルを貼るのも時には誤りで、と言うのは、主語Sの前に目的語Oが現れるのは日本語では全然稀では無いからです。うぅ〜ん、マジでますます混乱してきた・・・。


 日本語の形をした杭を英語の形の穴に無理に当てはめようとするのは止めて、もう一度始めましょう。


 最初に、英語では、文章の主要なカケラは決まった順序に置かれます。何か動作を行おうとする人(主語、例:I、ワタシ)が最初に来て、その動作を記述する言葉(述語、例:eat タベル)、更にその動作が為されるもの(目的語、例:スシ)が続きます。英語では誰が何をしたのかを述べるのは語順なのです。日本語の文章は助詞と呼ばれる文法マーカーが縁取って構成されます。各助詞は、その前に並ぶ単語が文中でどの単語−たいていは動詞−に対してどの様に関与するのかを示すのです。動詞は文末に現れますが、各単語の順序は、誰が何をしたのかを述べるのは、語順では無く助詞であるが故に、変動可能です。例えば、文章内容が話題を採り上げる場合(これはしばしば主語に等しい)は「は」が続き、目的語には「を」が、そして最後に動詞が続くのです。基本的な語順ゆえに日本語はSOV言語だとしばしば考えられますが、単語に適切に助詞を組み合われば単語の実際の順序は変えて構わないのです。











 語順で言語を把握する方法論が、日本語では当てはまらない、別の概念で捉えれば、日本語は合理的な言語体系であって、基本構造はいとも簡単に理解ができる、との簡潔明快で優れた指摘です。

 日本語が膠着語であることを考えると、動作主体や話題提示に関しても、それらが動詞(述語)を取り巻く修飾的概念の中の対等な要素に過ぎないことが理解できます。これは常に<動作主体+述語>の組み合わせを確たる配列のコアとして、物事を把握して世界認識を行う言語体系とは丸で違った認識で世界を捉えていることに他なりません。ある意味、「動作内容、物事の状態」を記述する概念がメインの言語とも言えそうです。「あぁ、静かだ」と言えば、何が静かなのかはさておいて、自分の周りが静かであることをまず感じ取り、第一に叙述する意識ですね。繰り返しますが、動作主体、即ち欧米語の主語相当語は、日本語では動詞(述語)を取り巻く要素の1つに過ぎない訳です。

 日本人はどれが動作の主体主語或いは話題として採り上げる主題主語かを弁別する意識薄く (だから主語に関する論争が起きたまま!)、逆に欧米語に翻訳する過程でそれらが明確に浮かび上がるところもありますね。

 例えば前々回の@にて例示した文章 「太郎には 才能がある。」 ですが、太郎と才能のいずれかを主体主語扱いにして英語、即ち動作の主体に「拘る」言語の1つにて表現すれば、

  As to Taro, a great talent is noticiable/ recognized. 

 太郎に関しては、才能が認められる。


  Taro is endowed with a great talent. 

 太郎は才能をもって生まれた。


 と言うところでしょうか。全然別の言語体系に接し、その言語体系の元で元の概念を把握し直すと、元の概念を明確化させて捉えることも出来ます。これが日本人が欧米語を学習することの最大の利点かもしれません。



 以下面白い論文を見つけましたのでご紹介しましょう。

日本女子大学文学部日本文学科

個人レポート『源氏物語』の本文と英語訳の生活・文化の表現の違いについて  竹 内 理 穂

http://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/thesis/research-note/KENO_43_01.pdf


*源氏物語の桐壺の一節(光源氏の三歳の御袴着のシーン)に於いて、生活様式や文化について、それらがどの様に英訳されているのかを以下3名の訳文で比較・考究した論文であり、特に主語の扱い、訳出時の明確性の比について論じたものではありません。


・末松謙澄  『GENJIMONOGATARI』 1974 Rutland

・アーサー・ウェイリー(Arther Waley) By Lady Murasaki, translated from the Japanese by Arthur Waley .『The Tale of Genji』 Modern Library 1960

・エドワード・サイデンステッカー(Edward G Seidensticker) Murasaki shikibu, translated with An introductionby Edward G.Sidensticker 『The tales of Genji』 1978


以下、本文から一部引用致します:


「源氏の三歳の誕生日、袴着の儀式を行う場面」


<新編全集本文及び訳>

 「この皇子三つになりたまふ年、御袴着のこと、一の宮奉りしに劣らず、内蔵寮、納殿の物を尽くしていみじうさせたまふ。それにつけても世の誹りのみ多かれど、この皇子のおよすけもておはする御容貌心ありがたくめずらしきまで見えたまふを、えそねみあへたまはず。ものの心知りたまふ人は、かかる人も世に出でおはするものなりけりと、あさましきまで目をおどろかしたまふ。(21 貢)」


 「この若宮が三歳におなりの年、御袴着の儀式を、さきの一の宮がお召しになったのにも劣らぬように、内蔵寮や納殿の財物のありたけを用いて、盛大にとり行わせられる。こうなさるにつけても、世間の非難がまことに多いけれども、この若宮の成長していかれるにつれてととのってゆくお顔立ちやご気性が、世にたぐいなく見るからに並はずれていらっしゃるので、どなたも憎しみ通すことなどとてもおできになれるものでは無い。ものの情理をわきまえていらっしゃる人は、このようなお方がよくもこの世に生まれておいでになったものよと、ただ呆然と目をみはってらっしゃる。」


< Seidensticker >

 When the young prince reached the age of three, the resources of the treasury and the steward’soffices were exhausted to make the  ceremonial bestowing of trousers as that for the eldest son. Oncemore there was malicious talk; but the prince himself, as he grew up, was so  superior of mien anddisposition that few could find it in themselves to dislike him. Among the more discriminating, indeedwere some who  marveled  that such a paragon had been born into this world.


 塾長には、現代日本語訳よりもサイデンステッカー氏の英訳の方がなぜか読んでいて情景が明瞭に浮かんできます。その後に原文や現代日本語訳を読み直すと味わいが深くなります。どうも日本語だと言葉に流されていくだけで情景が目に浮かびませんが、皆さんはいかがでしょうか?英訳したものを読むと<視覚効果>が高まる訳ですが、日本文学が、違う aspect から読み直され、脳が刺激を受けるのかもしれませんね。

 翻訳時に失われてしまうニュアンスもありますが (lost in translation と言います)、他言語訳と原文とを併せて読む遣り方も面白ろそうです。








How language shapes the way we think | Lera Boroditsky TED 2018/05/02 に公開

There are about 7,000 languages spoken around the world -- and they all have

different sounds, vocabularies and structures. But do they shape the way we think?

Cognitive scientist Lera Boroditsky shares examples of language -- from an Aboriginal

https://youtu.be/RKK7wGAYP6k


言語がそれを使う人間の思考形態そのものに影響を与えることが明快に語られます。

英語では、事故で壺が壊れたときに、誰が壺を壊したとの文章になるが故に、誰が

責任を負うべきかの方向に意識が向かいがちになりますが、スペイン語では壺が壊

れたと表現し、責任を問うことが和らぐとの例が示されます。誰の所為だと問う意識

は動作主体である主語を必ず文頭に添える言語の特質かもしれません。日本では

重大な過失に拠り社会に実害を与えても当事者の責任を曖昧にする風潮があります

が、これは主語概念が先鋭化していない日本語の性質が悪影響を及ぼしている(或

いは意図的に悪用する)様にも見えます。この辺は英語を見習うべきかもしれません。






 日本語が欧米語の様な主語・主体優勢言語とは明確に異なるものであることは確かであり、英語に苦手意識を持つ日本人が多いのも、この様な本質的な言語表現法、そしてそれを裏で支える発想法の大きな違いが作用していそうに見えます。ちょっと大仰に言えば脳機能の違いですね。脳内変換がその都度必要な訳です。単に語順が違っていて配列し直せば済むような問題ではありません。

 だいぶ前の話になりますが、塾長が初めて英語に触れた中学1年生の時に、どうして英語はいちいち主語を明記する、なんと面倒臭くてくどい言葉なのだろうと感じていたことを思い出しました。教員が欧米語と日本語の主語概念の違いを説明してくれていたら、英語学習にまつわるこの様なもどかしさも幾ばくかは軽減されていたろうにと思います。






日本語とトルコ語の凄い類似 - パート 1

2020/07/31 vacationintheuniverse

https://youtu.be/FRMhkqovbwY


日本語とトルコ語は文章の造り型が驚くほど類似していますが、1つの説では、トルコ−中央アジア

−モンゴル−朝鮮半島−日本語は一連の語族にある(アルタイ語族)とされます。尤も、トルコから中

央アジアに掛けてのテュルク系言語同士はある程度までは意思疎通が可能ですが、他同士、特に

日本語と朝鮮語は構成される単語1つ1つに共通点がない程までに分断、孤立化しています。文法

のタネは同根だが、拡散して後、互いに交流無く封印されて時間が経過した可能性があります。日

本語と琉球語は異なる言語として分離する直前の状態でしょうか?塾長は沖縄返還後2年後に旅行

しましたが、現地の人同士の会話が全く理解出来ませんでした。彼の話す英語が大変分かり易く感

じますが、日本人が話す英語構造に似ているからかもしれませんね。




Altaic: Rise and Fall of a Linguistic Hypothesis

2019/09/29 NativLang

Languages throughout Asia are startlingly similar, but are they all part of one huge

family? Thus began the biggest fight in the history of historical linguistics.

https://youtu.be/z0zkHH6ZOEk


アルタイ語族として纏まるかについては、共通祖先を持つのでは無く互いに横方向で影響しあった

結果だとする説も提出されています。言語間の類似性、系統性を探るに当たり、単語の共通性を

比較しようとの方法が従来採られて来ましたが、どうしても恣意的な言葉の選択とこじつけた解釈に

なりがちであり、塾長もこの様な方法論が常に成立するとは考えて居ません。この動画に寄せられた

コメントに、Weilong Guan: I'm a Manchu from Beijing, I speak a little Manchu and a little

Mongol, when I learned Turkish in Istanbul I found the grammar and vocab surprisingly

matching (excluding Islamic borrowings in Turkish and Tibetan Buddhist borrowings in

Manchu/Mongol). All those suffixes and conjugations are nearly the same. Other than

that my grandpa (Manchu) and grandma (Mongolian) could communicate with each other

speaking their native languages (plus Chinese and Tibetan)  とありましたが、文法構造面

で強固な類似性が互いにあると見られ、個々の単語の近似性よりはこちらの方を重視して語族

を捉えるべきと考えますが如何でしょうか?






アルタイ語とは




 膠着語としては、以前はウラルーアルタイ語族の概念が提唱されており、これはウラル語(フィンランド語、エストニア語、ハンガリー語)とアルタイ語(トルコ語、中央アジアの周辺チュルク語、モンゴル語、満州語、朝鮮語、日本語、琉球語)は共通祖先から分かれ出た言語群であるとの仮説です。近年はこれが否定され、ウラル語群とアルタイ語群の関係性は無いと考えられるに至っています。アルタイ語の群としての成立に関しても、1つの共通祖先から発したものではなく、中央アジアを遊牧する民族間で、互いに横方向の影響を受け、類似化が進行したのだろうとの説も勢力を強めている様です。これは1つには、アルタイ語群と考えられている言語同士の関係が、昔の方が遠く、より異なっていたとの研究結果に基づくもので、つまりは時代が下り、接触に拠って似通うに至ったとの考えです。この点に関しては、文の構造の推移が十分に証拠立てられているのか疑問を覚えますし、それに現在の言語が共通祖先を持たないにしても、共通の言語構造を与える祖語が1つ存在したのは揺るぎが無い筈と考えます。アルタイ語群としてのまとまりが成立するしないに関しては、現在でも  conroversial (論争がある) であり、定見は存在しません。

 従来から、言語間の類似性、系統性を探るに当たり、単語の共通性を比較しようとの方法が従来採られて来ましたが、どうしても恣意的な言葉の選択とこじつけた解釈に陥りがちとなり、塾長もこの様な方法論が常に有効に成立するとは考えて居ません。トルコから中央アジアに掛けてのテュルク系言語同士はある程度までは意思疎通が可能ですが、他同士、特に日本語と朝鮮語は、構成される単語にほぼ共通点がない程までに分断、孤立化しています。しかしながら、例えば日本語とトルコ語の文の構成を比較すると、驚く迄の類似性が見られますので、文法のタネは同根だが、拡散して後、互いに交流無く封印されて時間が経過した可能性が考えられます。北京在住の満州族の者がイスタンブールにてトルコ語を学習した際に、満州語とトルコ語間の文法並びに語彙(アラビア語やチベット語などの外来語を除く)の類似性に驚いたとの報告もあります。トルコ語と日本語との間には語彙の共通性は皆無と言って良いレベルですが、文法の類似性には矢張り驚嘆せざるを得ない水準にあると率直に感じます。日本語と朝鮮語間にも語彙の共通性はほぼ無いと言って良く、日本人が朝鮮語を耳にしても全く意味が分かりませんが、文の構成法は類似します。一方、日本語と琉球語は異なる言語として分離する直前の状態でしょうか?塾長は沖縄返還後2年後に旅行しましたが、現地の人同士の会話が全く理解出来ませんでした。文章語にすると理解は或る程度は可能でしたが。

 1つの解釈としては、あそらくは中央アジアにて成立していた−現在の中国まで拡散していたが後に中国語圏の拡大で北に追いやられた可能性もある−1つのアルタイ祖語としての基本的な文法構造が本邦に伝来してのち、島国として長く隔離され、独自の語彙を発達させたが故の孤立言語日本語の成立であり、語彙的には孤立しているが文法的には全く孤立して居らず、日本語が孤立言語であると強調するのは誤りではないのかと塾長は考えます。

 言語はそれを使う人間の思考形態そのものに影響を与えるものである故に、アルタイ語話者は、共通のモノの捉え方、即ち世界認識を行っている筈であり、実際、トルコ人が話す英語が日本人には非常に理解し易いところがあると感じられます。youtube 動画で、米国からの帰国子女が無生物主語の英文にすると native らしく聞こえて良いなどと発言していますが、日本人には苦手且つ馴染みの無い発想法であり、おそらくトルコ人にも苦手な表現なのでは無かろうかと想像もします。

 言語間の類似性、系統性を探るに当たり、単語の共通性を比較するのではなく、文法構造面での類似性を重視して語族を捉えるべきと考えますが如何でしょうか?日本語と中国語は漢字の単語の貸し借り、重複が烈しい言語関係にありますが、文法構造は丸で違ったままで何ら互いの影響は有りません。モノの発想法即ち民族の魂とも言える、言語の文法構造は極めて保守的に保たれるのではないでしょうか?

 アルタイ語との関係性を含めた日本語の成立については後日考察を進めコラム化する予定です。

(この項、20214月12日追加)