lost in translation |
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2019年9月15日 皆様、KVC Tokyo 英語塾 塾長 藤野 健です。 『ロスト・イン・トランスレーション』 (Lost in Translation)は、コッポラ監督の娘、ソフィア・コッポラが監督と脚本を担当した 2003年製作の映画ですが、アカデミー脚本賞他、数多くの賞を受けています。映画自体は日常生活に起こる様なちょっとした出来事を軽妙に描写するもので、特に深い文学性や芸術性があるものとは思えません。公式ホームページは http://www.lost-in-translation.com/ ですが、この程度の英文が、時に知らない単語が混じる程度でスイスイ読めれば、英語の基礎力は出来ていると判定できます。戻ることなく、文章の順序のままに頭に入りますか? lost in translation とは、例えば日本に旅行に訪れた英語話者が、スマホのグーグル翻訳で対応している内に<茫然自失になり何がなんだか分からなくなった>との意味もあります(lost は迷子になった、自分の座標位置を見失ったの意で多用される)が、<翻訳でニュアンスが失われる> との意味にも使われます。明確な論理仕立ての文章、例えば自然科学分野の学術論文を翻訳する場合は兎も角として、言語固有の発音や個々の単語の抱える付帯的な情報は他言語に移し替えるのは困難です。そ の最たるものが詩の翻訳ですが、韻を踏んだものを他言語に置き換えようがありませんね。 参考サイトhttps://ja.wikipedia.org/wiki/上田敏https://ja.wikipedia.org/wiki/堀口大學 |
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上田 敏の 『海潮音』https://www.aozora.gr.jp/cards/000235/files/2259_34474.htmlの序文に、 「巻中収むる処の詩五十七章、詩家二十九人、伊太利亜に三人、英吉利に四人、独逸に七人、プロヴァンスに一人、而して仏蘭西には十四人の多きに達し、曩 (さき) の高踏派と今の象徴派とに属する者その大部を占む。高踏派の壮麗体を訳すに当りて、多く所謂七五調を基としたる詩形を用ゐ、象徴派の幽婉体を翻するに多少の変格を敢てしたるは、その各の原調に適合せしめむが為なり。(中略) 訳述の法に就ては訳者自ら語るを好まず。只訳詩の覚悟に関して、ロセッティが伊太利古詩翻訳の序に述べたると同一の見を持したりと告白す。異邦の詩文の美を移植せむとする者は、既に成語に富みたる自国詩文の技巧の為め、清新の趣味を犠牲にする事あるべからず。しかも彼 (かの) 所謂逐語訳は必らずしも忠実訳にあらず。されば「東行西行雲眇眇 (びようびよう)。二月三月日遅遅」を 「とざまにゆき、かうざまに、くもはるばる。きさらぎ、やよひ、ひうらうら」 と訓み給ひけむ神託もさることながら、大江朝綱 (おおえのあさつな) が二条の家に物張の尼が 「月によつて長安百尺の楼に上る」 と詠じたる例に従ひたる処多し。」 とあり、翻訳者の苦労が偲ばれます。詩としての格調やそれが持つ香気を減ずることなく伝える為に、日本語の七五調を採用したり、また逐語訳は忠実訳ではないとして、漢語の詩歌を大和言葉に訳出した例を挙げていますが、それが 「訳詩の覚悟」 だ、との主張ですね。 『海潮音』 にはボードレールの詩 5篇が訳出されていますが、もう少し散文的な訳でも良かったのかとも感じますが、正しい訳であると同時に詩の香りが保たれていると感じます。 |
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そう言えばと、堀口大學が翻訳した Jean Cocteau コクトーの有名な詩 (訳詩集 『月下の一群』 に収載される) を調べてみました。 Poesies <最初のeの上にアクセント記号がつきます>(1917-1920) Cannes X Mon oreille est un coquillage モン ノレイユ エタン コキヤージュQui aime le bruit de la mer. キエム ル ブリュウィ ドラメール私の耳は 貝のから海の響を なつかしむ 短詩集 (1917-1920) 「カンヌ」 の第5篇にある僅か2行の詩文ですが、仏語サイトで検索を掛けてみましたが、この詩に関する記述が殆ど見付かりませんでした。フランスではまともな詩歌扱いされていないのかとちょっとビックリしましたが、只の短い散文詩めいた詩ですので当たり前の事を表現しただけと評価されないのかもしれません。金持ちのぼんぼんのなんでも屋のコクトーがまた何か書いているぞ、でしょうか。貝殻を耳に当てるとすーすー音が聞こえる、との事象に着想を得て、僕の耳 (耳は解剖学用語で耳介=耳の貝)は貝殻なんだ、それでざぶんざぶんと打ち寄せる潮騒の音が好きなのかぁ、の意味です。 僕の耳は貝殻さ海のざぶんが大好きだ(塾長訳) カンヌの地中海を目にし、海辺で過ごした子供の頃を遠い目で見るように思い出しながら、茶目っ気で書いたのかもしれませんね。ここら辺のところは日本の仏文学関係者の見解を聞きたいところですが (知り合いに早稲田の仏文を中退した奴がいたのですが現在消息不明・・・)、この詩を紹介した国内サイトはごまんと存在しますが、本国での扱いを含めて突っ込みがありません。ブログ記事を書く時に国内の他人のページを参考にするだけで、大方はフランス語での検索も掛けていない様にも見えます。今回概観していて気がつきましたが、oreille を oteille と誤記したものがあり、それを使い回しているサイトが皆その誤った綴りとなっていましたが、詩を語るもっともらしい体裁を保っていても他人の褌を借りているだけの残念なサイトだなぁと直ぐに判明した次第です。勿論例外はあって優れて深い考察を行っているサイトも存在します。 話を戻しますが、このコクトーの詩は堀口の訳で本邦だけで有名になっている詩なのかも知れません。これが事実であれば、散文詩に、七五調に加え<響き><なつかしむ>の語を与え、詩の香りを幾らか盛り過ぎた可能性もあり、 lost in translation ではなく、 added in translation の例と言えるのかもしれませんね。 |
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