アングロサクソン人とは@ どこから来たのか? |
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2019年11月20日 皆様、KVC Tokyo 英語塾 塾長 藤野 健です。 皆さんもアングロサクソンと言う言葉はたびたび耳にしたことがあると思いますが、その意味するところを正しく知り得ている方は少ないのではと思います。フランス語で英語のことをアングレーズと言うので、英国人とサクソン人の混血かぁ、などと思われる方もおられるかもしれませんね。 たまたま British Library の web サイトを眺めていたところ、アングロサクソン人についての記事が目に入りました。今回はその記事を参考にしながらアングロサクソン人について採り上げましょう。アングロサクソン人とは何者なのか、どこから遣って来てどんな言葉を話していたのでしょうか?今回から 4回に亘り採り上げていきます。 https://www.bl.uk/anglo-saxons/articles/who-were-the-anglo-saxonsBritish Library Who were the Anglo-Saxons?Article written by: Julian Harrison 著者のJulian Harrison 氏は British Library の中世史写本文献担当の curator 学芸員ですので豊富な文献を例示しながら解説を加えており、数多くのアングロサクソンを巡る web サイトの中で文字通りの圧巻と感じられます。是非元のサイトをご覧ください。 以下、本コラム執筆の参考サイトhttps://www.bl.uk/anglo-saxons/articles/who-were-the-anglo-saxonsBritish LibraryWho were the Anglo-Saxons? Article written by: JulianHarrisonhttps://ja.wikipedia.org/wiki/アングロ・サクソン人https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%86thelstanhttps://ja.wikipedia.org/wiki/アゼルスタン_(イングランド王)https://ja.wikipedia.org/wiki/ベーダ・ヴェネラビリスhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ギルダスhttps://ja.wikipedia.org/wiki/イングランド教会史https://en.wikipedia.org/wiki/Ecclesiastical_History_of_the_English_People『イングランド教会史』のラテン語原典英文注釈附きhttps://archive.org/details/historiaecclesia00bedeuoft全文が閲覧可能。 |
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アングロサクソン人とは、5〜6世紀に掛けて英国に植民した者達ですが、当初は多数の小集団として上陸し、数多くの王国を打ち建てました。最終的には英王国 the kingdom of England として政治的に単一の王国に纏まりました。これはアゼルスタン王の統治時代(924−939)の事です。 |
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アングロサクソン人はどこから遣って来たのか?8世紀の記録として、ノーサンブリア(スコットランドの南に隣接する古王国)の修道士であった尊者ベーダ Bede the Venerable (735年没)が、彼の 『イングランド教会史』(731年)(羅語表記: Historia ecclesiastica gentis Anglorum, 英語表記: Ecclesiastical History of the English People, 5巻)の中で、これらの移民について記述しています。原典はラテン語で記述されており、https://archive.org/details/historiaecclesia00bedeuoftここからラテン語原典 (英文の注釈附き)が、またラテン語版、現代英訳版が共にアマゾン通販で入手可能です。英国民のキリスト教への改宗の歴史を述べた書物です。「彼らは3つの強大なゲルマン人であるサクソン、アングル、ジュート人に由来する。ケント Kent (ブリテン島の南東端)の住民と Wight島の住民はジュート人起源で、更に Wight島に向き合う Wessex 王国の一部も今日依然としてジュート国と呼ばれている。東、南、そして西サクソンの人々は、サクソン国つまりは古サクソンとして知られる地区から遣って来た。これ以外にも、アングル国(Angulus と呼称される)つまりはジュート王国とサクソン王国に挟まれた土地からは、東、中央アングル、Mercians、ノーサンブリアの全住民 (即ち River Humber ハンバー川 の北側に住む者達)が遣って来た。アングリアの人々も同様である。アングル国はその当時から今日に至るまで見捨てられたままになっていると言われている。」Bede の記述は、考古学的な証拠の範囲では支持されています。 例えば Spong Hill in Norfolk と言った東イングランドの墓地の発掘の結果、初期のアングルサクソン人の埋葬慣行と北海に面する地域の他のゲルマン人のそれが非常に類似することが判明しています。例えば、Binham Hoard の最近の発見では、5〜6世紀に東アングリアに住んでいた人々が、スカンジナビア及び現在のドイツ地域から発掘されたものと大変よく似た宝飾品を身に付けていたことが示されています。ジュート国とは現デンマークの半島 (ユトランド半島、Jutland、ジュート人の住む半島)の北半分、アングル国とは南半分、サクソン国とは半島の付け根の領域です。ローマ帝国がブリテン島から撤退したのと引き替えに移民を開始した訳ですね。先住民であるケルト系住民を支配下に置き、或いは駆逐して行ったのです。 |
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アングロサクソン人はどこに入植したのか? 証拠からは、最初はイングランド東部に入植したのち、西にまた北部に移動してそれまでブリトン人 (ケルト系)が住んでいた領土を占領したことが示唆されます。ウェールズはブリトン人の拠点の地であり続け、またカンブリア (ウェールズ語でウェールズを指す Cymru カムリと同根) はおそらく他の北の方のイングランドよりも長い間、侵入者に対抗して保持されていたのでしょう。コーンウォールも 10世紀まではケルト人の独立が維持されていたのです。 Gildas ギルダスと Bede ベーダ は、ブリトン人とノーサンブリア人について各々概観していますが、早い世紀に於けるアングロサクソン人とブリトン人との間の一連の紛争を描写しています。 Gildas は、アングロサクソ人の到来は、あるブリトン人のリーダーの堕落した行いに対する神からの罰であったと仄めかしています。 アングロサクソン人をアングル人、サクソン人、ジュート人へと分けることは、おそらく Bede が明言する程には明確なものではなかったにしても、彼らのヨーロッパ大陸との関係は幾つかの王国の名に保たれています。例えば、南部及び西部イングランドのサクソン王国 (西サクソン West Saxons の Wessex、南サクソン South Saxons の Sussex、中央サクソン Middle Saxons の Middlesex、東サクソン East Saxons の Essex)、並びに東、北、中央地域のアングル王国 (東アングリア East Anglia,、ノーサンプリア Northumbria、及び Mercia)と言った様に。 ユトランド半島及びその付け根の地域からブリテン島に侵入した訳ですが、隣り合う民族(部族と呼ぶ方が正しいかもしれません)ですからゲルマン諸語の中の方言程度の違いしか無かったのかも知れず、互いの情報が行き交い、オレもオレもと入植を開始したとも言えそうですね。それら民族がローマ撤退後の空白の地であったブリテン島を、つばぜり合いをして割拠したことになります。 |
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北海に面した厳しくまた寒冷な居住地よりは、ローマ人が放擲後のパワー不在の土地であったブリテン島の方がまだ自由に開拓も出来るとの思いで移民したのでしょう。この1000年後に、今度は一部の者達がブリテン島を脱出し北米大陸へと移民を始めることになりますが、厳しい見方をすれば、ヨーロッパの本拠地の実り豊かな土地に拠点を構えることが出来なかった文化的に弱い民族が、つぎつぎと新天地を求め、「我が物顔」で新たな土地を収奪し、更に弱い立場の先住民の文化を蔑ろにして来た話ともなります。これをアングロサクソン人の民族的習性として理解しておくと、外交関係にも当然生かすことが出来るのではないかと塾長は考えます。− 支配し得たのは、文化的に劣位の者が居住する土地ばかりでした。 ブリテン島並びにアイルランド島が肥沃な大地であれば、ローマ側が手放すことも無かった筈です。実際には火山も無く、ミネラル分に乏しい痩せた寒冷な土地である為、アングロサクソン人はそこに入植はしたものの、同じく、別の<劣った>民族の土地を軍事力の行使を通じ植民地化して利益を収奪する、或いは金融で生きるぐらいしか道が無かったのかしれません。 英国人が記述するアングロサクソン人の成立についての解説には、British Library 職員執筆のの記事ではあっても、この様な、収奪と支配の視点はほぼ封印されている様に感じています。歴史書は−web の記事や動画を含めて−執筆者の側のマズいことには触れませんので批判的な読解が必要と言う事ですね。 (つづく) |
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