アングロサクソン人とはB 宗教・社会 |
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2019年12月10日 皆様、KVC Tokyo 英語塾 塾長 藤野 健です。 アングロサクソン人とは何者なのか、どこから遣って来てどんな言葉を話していたのでしょうか? この話の第3回目です。 引き続き、以下のサイト群を参考にして話を進めます:https://www.bl.uk/anglo-saxons/articles/who-were-the-anglo-saxonsBritish Library Who were the Anglo-Saxons? Article written by: Julian Harrisonhttps://www.bl.uk/anglo-saxons/articles/who-were-the-anglo-saxonsBritish LibraryWho were the Anglo-Saxons? Article written by: Julian Harrisonhttps://ja.wikipedia.org/wiki/アングロ・サクソン人https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%86thelstanhttps://ja.wikipedia.org/wiki/アゼルスタン_(イングランド王)https://ja.wikipedia.org/wiki/リンディスファーン島https://ja.wikipedia.org/wiki/聖パトリックの祝日https://ja.wikipedia.org/wiki/エゼルベルト_(ケント王)https://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム1世_(イングランド王)https://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝https://ja.wikipedia.org/wiki/倭国大乱https://ja.wikipedia.org/wiki/台与https://ja.wikipedia.org/wiki/狗奴国滋賀県立近代美術館https://www.shiga-kinbi.jp/ |
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アングロサクソン人の信じる宗教は何だったのか?5〜6世紀にイングランドに入植したアングロサクソン人は非キリスト教徒でした。彼らの宗教的慣習に関しては情報も多くはなく、どう言うものであっのかあまり推測することも出来ないのですが、それらは彼らの埋葬慣行を見てのもの、或いは後世キリスト教徒が書いた記録から得たものになります。最も初期の時代の彼らの墓地を発掘したところ、非キリスト教徒であるアングロサクソン人が土葬以上に火葬を好んだこと、また時に遺体を埋葬品と共に埋めた事が判りましたが、これは彼らが来生を信じていた可能性を示唆しています。Bede に拠れば、アングロサクソン人の月と曜日の名前は非キリスト教に起源を持ち、他方、アングロサクソン人の神話に拠れぱ、王国の様々な規範はゲルマン人の神である Woden に全て遡るとされます。6世紀の晩期に、教皇グレゴリウス1世 Gregory the Great (509−604)は、ケントのAthelberht エゼルベルト王をキリスト教に改宗させるべく、イタリアの修道士アウグスティーヌを送りました。アングロサクソン人の王国らは、それに抵抗する孤立地区を伴いはしましたが、次の世紀を通じてローマからの伝道師及びアイルランドの修道士の影響下でキリスト教を採用するに至りました。ノーサンブリアでのキリスト教の採用は、ケントでの改宗に見られたのと同様、それに対する王の支持が決定的に作用したものです。ノーサンブリアを改宗させるべくオスワルド王は、スコットランド西岸アイオナからアイルランド出身の聖エイダを招きましたが、エイダは司教職の新たな場としてリンディスファーン島を選びそこに修道院を建てました。 どうしてアイルランドからカトリック教会の伝道師がイングランドに遣って来たのか不思議に感じる方が大半だろうと想像しますが、アイルランドはローマの侵入及び撤退後にキリスト教化が進行し、一方ブリテン島には異教を信じるアングロサクソン人の侵入があったため、布教が遅れていたと言う次第です。現在でもアイルランドでは国民の殆どがローマカトリック教徒ですが、キリスト教の布教面ではアイルランドの方がイングランドよりも先行して居た事になります。 |
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いささか脱線しますが、その当時の日本はどうだったのでしょうか?当時の日本人は文字も持たなかったのか、自前での歴史的記録はありません。アングロサクソン人のブリテン島への入植に先立つこと200年程前の記録になりますが、中国の魏志倭人伝から様子を窺うことになります。 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書 『三国志』 中の 「魏書」 第30巻 烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称ですが、『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末 (280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれています。 以下、https://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝 の中から引用します:「卑弥呼と壹與元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。そこで、卑弥呼と言う一人の女子を王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。卑弥呼は、鬼道に事え衆を惑わした。年長で夫はいなかった。弟が国政を補佐した。王となって以来人と会うことは少なかった。1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、ただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。樓観や城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していた。卑弥呼は景初2年 (238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から 「親魏倭王」 に任じられた。正始8年 (247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。正始8年 (247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された。その後、男王を立てるが国中が服さず更に殺し合い 1000余人が死んだ。再び卑弥呼の宗女 (一族or 宗派の女性)である 13歳の壹與を王に立て国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。 」Wikipedia contributors. "魏志倭人伝." Wikipedia. Wikipedia, 31 Oct. 2019. Web. 31 Oct. 2019. この記述から見ると、巫女的な神格化された女性を祭り上げ、その権威のもとでクニを統制するとの、呪術的宗教態勢下のヒエラルキー構造の社会であったことが窺えます。後に伝来した体系の整った「まともな」宗教である仏教からみれば、paganism と呼んでも違和感はありません。東アジアモンゴロイドの土俗宗教であるシャーマニズム系の宗教でしょうね。この様な土着的宗教を体系化して洗練させて行き、成立した宗教が日本の神道である様に塾長は考えますが、何をいい加減なことを言っているのだと宗教学者から叱られるかもしれません。 因みに安田靫彦画伯の 『卑弥呼』 (教科書に掲載される有名な絵画)は滋賀県立近代美術館に収蔵されており (2021年3月末まで休館中)、また卑弥呼の復元 3D像は大阪府立弥生文化博物館にて常設展示されています。興味のある方は是非お出かけ下さい。 |
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アングロサクソン人の社会はどのように組織されていたのか?アングロサクソン人の社会はヒエラルキー (ピラミッド型の階層型組織構造)でした。その頂点には王とロイヤルファミリーが君臨し、次いで貴族、司教並びに教会関係者が並びます。底辺には社会の不自由身分である奴隷が占めていました。2つの要となる情報源からアングロサクソンの社会機構の実体を知る事が出来ます。1つは、ケントのエゼルベルト王 (604年没)が定めた一番初期の法典、他は ドゥームズデイ・ブック (土地台帳)です。エゼルベルト王の法律は犯罪者と受傷者の地位に基づく、償いと罰則からなる込み入った体系でした。これら2つからは、アングロサクソン人のイングランドでは女性が権利を持っていたことが明らかになっていますが、それは個人の婚姻上の地位に従うものでした。償いは女性には支払われず、その代わりにその女性の父親、夫或いは兄弟に与えられるものでした。ドゥームズデイ・ブックは、1085年のクリスマスに、征服王ウィリアム1世 (イングランド王、1066-1087) により作成を命じられ一年以内に完成しました。この土地台帳には 11世紀のイングランドでの土地所有及び他の財産所有の形式について記述されています。征服者であるノルマン人により編集されたものではありますが、アングロサクソン人により設立された管理機構を元にしている事は明らかです。英国郡部を shire (シャー、‐shire を語尾とするイングランド中部の諸州) に分割する区割りはほぼ 1974年まで丸のまま残っていましたが、これもまたアングロサクソン人の習慣に基づくものであり、ドゥームズデイ・ブックにその証拠が残っています。ドゥームズデイ・ブック成立の経緯についてはアングロサクソン年代記に以下の記述があります。http://www.gutenberg.org/cache/epub/657/pg657-images.htmlThe Anglo-Saxon Chronicle Translator: James Henry IngramA.D. 1085Then, at the midwinter, was the king in Glocester with his council, and held there his court five days. And afterwards the archbishop and clergy had a synod three days. There was Mauritius chosen Bishop of London, William of Norfolk, and Robert of Cheshire. These were all the king's clerks. After this had the king a large meeting, and very deep consultation with his council, about this land; how it was occupied, and by what sort of men. Then sent he his men over all England into each shire; commissioning them to find out "How many hundreds of hides were in the shire, what land the king himself had, and what stock upon the land; or, what dues he ought to have by the year from the shire." Also he commissioned them to record in writing, "How much land his archbishops had, and his diocesan bishops, and his abbots, and his earls;" and though I may be prolix and tedious, " What, or how much, each man had, who was an occupier of land in England, either in land or in stock, and how much money it were worth." So very narrowly, indeed, did he commission them to trace it out, that there was not one single hide, nor a yard of land, nay, moreover (it is shameful to tell, though he thought it no shame to do it), not even an ox, nor a cow, nor a swine was there left, that was not set down in his writ. And all the recorded particulars were afterwards brought to him. 英国の街の名にYorkshire, Berkshire, Buckinghamshire, Oxfordshire, Northamptonshire, Leicestershire, Lincolnshire, Nottinghamshire などがありますが、これらの州や群の区割りは遅くとも11世紀に遡れる訳ですね。尤も、本邦の現在の都道府県の区割りは奈良時代の風土記成立まで遡れますので、日本の歴史の方が資料豊富且つより古代まで遡ることが出来ます。ヨーロッパの諸国でも僅か5〜600年前である15世紀以前の歴史記録もほとんど残っていない国が多いのですが、ギリシア、ラテン、中国の記録には敵いませんが日本はまだずば抜けており、誇りを持って良さそうです |
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