アングロサクソン人とはC 1066年に何が起きたのか |
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2019年12月15日 皆様、KVC Tokyo 英語塾 塾長 藤野 健です。 アングロサクソン人とは何者なのか、どこから遣って来てどんな言葉を話していたのでしょうか? この話の最終回の第4回目です。 引き続き、以下のサイト群を参考にして話を進めます。 https://www.bl.uk/anglo-saxons/articles/who-were-the-anglo-saxonsBritish Library Who were the Anglo-Saxons? Article writtenby: Julian Harrisonhttps://www.bl.uk/anglo-saxons/articles/who-were-the-anglo-saxonsBritish LibraryWho were the Anglo-Saxons? Article written by: JulianHarrisonhttps://ja.wikipedia.org/wiki/アングロ・サクソン人https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%86thelstanhttps://ja.wikipedia.org/wiki/アゼルスタン_(イングランド王)https://ja.wikipedia.org/wiki/リンディスファーン島https://ja.wikipedia.org/wiki/聖パトリックの祝日https://ja.wikipedia.org/wiki/エゼルベルト_(ケント王)https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒエラルキーhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム1世_(イングランド王)https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%86thelred_the_Unreadyhttps://ja.wikipedia.org/wiki/エゼルレッド2世_(イングランド王)https://ja.wikipedia.org/wiki/エマ・オブ・ノーマンディーhttps://ja.wikipedia.org/wiki/エドマンド2世_(イングランド王)https://ja.wikipedia.org/wiki/エドワード懺悔王https://ja.wikipedia.org/wiki/ハロルド2世_(イングランド王)https://ja.wikipedia.org/wiki/ヘイスティングスhttps://ja.wikipedia.org/wiki/エドガー・アシリングhttps://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Saxon_Chroniclehttps://ja.wikipedia.org/wiki/ノルマン人https://ja.wikipedia.org/wiki/ノルマン朝https://ja.wikipedia.org/wiki/プランタジネット朝https://ja.wikipedia.org/wiki/アングロサクソン年代記https://ja.wikipedia.org/wiki/ノルマン・コンクエストhttps://en.wikipedia.org/wiki/Pleading_in_English_Act_1362https://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Norman_language |
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1066年にアングロサクソン人に何が起きたのか? 11世紀の間、アングロサクソン人のイングランドは一度ならず二度まで征服されました。その1度目として、デーン人の王 Cnut カヌートは 1016年に土着のアングロサクソンの王家を追い出し、彼とその息子の 2代に亘り、1042年までイングランドを統治しました (デーン朝)。 デーン人の侵攻に悩まされた エゼルレッド 2世に関しては、wikipedia の記述が分かり易く、以下引用します: Wikipedia contributors. "エゼルレッド2世 (イングランド王)."Wikipedia. Wikipedia, 13 Nov. 2017. Web. 13 Nov. 2017.「エゼルレッドは、その治世を通じて絶えずデーン人の侵入に苦しめられた。デーン人が侵入する都度、イングランドは 「デーンゲルド」と称される退去料を支払ってきた。これは一時的な平和には寄与したものの、度重なる支払いでイングランド財政には大きな負担となった。エゼルレッドは、デーン人がノルマンディーを拠点としてイングランドに攻撃を仕掛けることを恐れた。そのため、ノルマンディー公国と友好関係の樹立を図り、ノルマンディー公リシャール1世の娘エマと結婚した。また、エゼルレッドはデーン人に対する懸念から、国内のデーン人を虐殺した。このことは、当時のデンマーク王スヴェン1世の反発を招き、デーン人の侵入を激化させることになった。イングランドの国内勢力をまとめ上げることもかなわず、ついに1013年、デーン人の攻撃に屈して姻戚関係にあったノルマンディーへの亡命を余儀なくされた。こうしてスヴェン1世にイングランド王位を奪われたが、翌1014年にスヴェン1世が急逝した。そのため、エゼルレッドはイングランドに帰国して復位を果たした。しかし、デーン人のカヌート(のちのデンマーク王クヌーズ2世)がイングランド遠征を引き継いだため、引き続きデーン人との攻防は続いた。だが、1015年には3代の国王に仕えて 「デーンゲルド」 政策推進の中心人物であった重臣 エアドリチが カヌートに内応して離反してしまう。これによってイングランド側は苦境に立たされる。こうした状況の中、生涯を通じてデーン人と争ったエゼルレッドは、1016年に病没した。その後、エゼルレッドの息子 エドマンド 2世が王位を継承した。しかし、間もなくエドマンドも死去したため、デーン人のカヌートがイングランドの王位につくことになる。 」 エドワード懺悔王 (エゼルレッド2世とエマ・オブ・ノーマンディーの息子、エドマンド2世の異母弟)が王位に就いている間の「デーン人が自国へ引っ込んだ幕間」が1066年彼の死と共に過ぎると、エドワード懺悔王は修道士として純潔を守り子孫が居なかったことから、世継ぎ問題でイングランドが揺れ動きました。最後のアングロサクソンの王ハロルド2世が 1066年 10月 14日に ヘイスティングスの戦いにてフランスの ノルマンディー公 ギヨーム 2世 (のちのウィリアム 1世、エドワード懺悔王の従甥、自分も王位に就く正当性があると主張)に敗れ亡くなりました。 生き延びたイングランドの貴族により選ばれたのはハロルド 2世の後継者エドガー (エゼルレッド 2世の次男エドマンド 2世の孫、父親の亡命先ハンガリー生まれ、1125年没)でしたが、一度も権力の座に着けず戴冠することもありませんでした。新たなノルマン人の王朝はこの後ほぼ 3世紀に亘り (1066〜1154年、ノルマン朝、1154〜1399年、プランタジネット朝)イングランドを支配したのです。公文書や法廷用語に英語が再び使われ始めた 1362年までは、一般民衆には理解も出来ない Anglo-Norman language (フランス語のノルマンディー方言)や Law French (法廷フランス語)が 300年の長きに亘り使われて来たのです。 |
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この様に、デーン人の度重なる侵入によりイングランドの国土が彼らの支配下としてじわじわと削り取られ、アングロサクソン人の王家が弱体化しているところに、今度は対岸のフランスのノルマン人が最後に侵入してアングロサクソン人の王家は途絶えました。東と南からの波状攻撃ですね。斯くして 1066年にアングロサクソン人が歴史の視界から消え去ったのです。ここで注意しておきますが、フランス語を話す対岸のノルマン人は、ラテン系の血の入ったフランス人では無く、北方ゲルマン人のヴァイキングがフランス北西部のノルマンディー (セーヌ川の河口)に住み着き、フランス語文化圏化し、「ノルマンディー公国」を建国したものです。デーン人とは親戚のようなものです。まぁ、ブリテン島の南半分を占めるイングランドの土地を巡って、北方ゲルマン系諸民族の間でぶんどり合戦が繰り広げられていたと理解すれば間違いでは無いでしょう。 ドゥームズデイ・ブックは、土着のイングランドの多くの土地所有者並びに教会が 1066年から 1086年の間に自分たちの地所を実質的に失ってしまったことを証明していますが、アングロサクソン人は人口の最大区分であり続けました。 彼らの言葉は、王家の公用語また法律システムとしてのフランス語に置き換えられましたが、12世紀またそれ以降に至るまで本は英語で執筆されました。1066年の年次記録では、アングロサクソン年代記 Anglo-Saxon Chronicle(全文が読めます: http://www.gutenberg.org/cache/epub/657/pg657-images.html The Anglo-Saxon Chronicle Translator: James Henry Ingram)の一原稿が、アングロサクソンに対するノルマン・コンクエストがもたらした悲観的視点で描かれています−征服以降と言ったら物事はずっと悪くなって仕舞った、と。しかしアングロサクソンの習慣とイングランドの言葉はその後何世紀もの間、被支配者の間では優勢で有り続けたのです。 |
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ノルマン人、ノルマンディ公国並びにノルマン・コンクェストに関しては、次回言葉としての英語の変遷の歴史と共に詳しく扱います。英国史の11世紀を押さえておくとそれを起点に英国への理解が一気に深まるのではと思います。言葉を知ることはその国の文化、歴史を知ることに他なりませんね。 |
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