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塾長のコラム 2019年12月20日 『ノルマン・コンクエストと英語







ノルマン・コンクエストと英語




2019年12月20日

 皆様、KVC Tokyo 英語塾 塾長 藤野 健です。

 英語の語彙には1万語ものフランス語からの借用が認められますが、なぜこの様なことが起きたのか、を理解しておくことは、英文読解の基礎的知識としても必要なことでしょう。借用と言っても、直接的な征服・非征服の関係無しに、いわば文化交流として中国から日本に言葉が流入したのとは全く異なり、コンクエスト conquest のタイトル通り、征服の結果もたらされたものです。

  因みに、スペイン人のコンキスタドーレがインカ帝国を滅ぼした様に、conquest とは 

*con- = together, completely 共に、徹底して

*quest = Medieval Romance. an adventurous expedition undertaken by a knight or knights to secure or achieve something: the quest of the HolyGrail. 騎士が何かを守り或いは遂行する為に行う冒険的遠征

 (from Webster's unabridged Dictionary)


  詰まりは conquest=con+quest で 「相手側を自分のものに収め切る冒険」なら「征服」で正しいでしょう。十字軍の遠征などもこの意味ではコンクエストconquest になりますね。


 話を戻しますが、逆に言えばこの征服が起きる以前の英国には、高度な政治的、経済的、学問的な立ち位置にあった対岸のフランスと交流し、それら高度な概念の言葉を文化として借用せんとする気持或いは機会を持たなかったことを意味します。日本人が遣唐使や優れた僧などを派遣し対岸の中国から進んだ文化を取り入れようと頑張った気概の様なものを持ち合わせて居なかったのでしょうか?

 11世紀初頭までは、海賊のデーン人が王様に立ったりと、古英語(西ゲルマン語)や古ノルド語 (北ゲルマン語)を話す未開のゲルマン人同士でブリテン島のぶんどり合戦に明け暮れ、開明の精神に欠けていた、或いはそれどころではなかったのかもしれません。まぁ、基本は収奪に長けた海賊の習性強い血統でしょうか。文化・芸術に花開いたローマ人とはだいぶ違っている様に感じます。



以下、本コラム執筆の為の参考サイト:


https://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム1世_(イングランド王)


https://ja.wikipedia.org/wiki/ノルマン人


https://ja.wikipedia.org/wiki/ノルマン・コンクエスト


https://ja.wikipedia.org/wiki/ノルマンディー公国


https://ja.wikipedia.org/wiki/ノルマンディー上陸作戦


https://fr.wikipedia.org/wiki/Duch%C3%A9_de_Normandie


https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Hastings


https://fr.wikipedia.org/wiki/Normandie


https://ja.wikipedia.org/wiki/前九年の役


https://ja.wikipedia.org/wiki/百年戦争


 ギヨーム. (2019, January 18). In Wikipedia. Retrieved 14:38,January 18, 2019,

from https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%AE%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%A0&oldid=71345649

 「ギヨーム(Guillaume, 発音:/gijom/)は、ゲルマン起源のフランス語圏の男性名。ギョームとも表記されるが適切でない。ドイツ語名ヴィルヘルム、英語名ウィリアム、オランダ語名ウィレム(ヴィレム)、イタリア語名グッリェルモ、スペイン語名ギレルモなどに対応する。 」


 因みに英語圏のウィリアムの縮小名は Bill であることは皆さんよく知っていることと思います。







ノルマンディー上陸作戦の作戦計画図(1944年6月6日)。赤はドイツ軍の部隊。

輸送路が短くてすむが防御の厚いパ=ド=カレーを避け、落下傘部隊の降下

と艦船による砲撃、揚陸を組み合わせている

"File:Allied Invasion Force.jpg." Wikimedia Commons, the free media repository.17

Dec 2017, 02:49 UTC. 31 Mar 2019, 02:48 <https://commons.wikimedia.org

/w/index.php?title=File:Allied_Invasion_Force.jpg&oldid=272500781>.


因みにこの地図の左下に突き出た半島はブルターニュ半島ですが、ブリテン島の

ウェールズに住むウェールズ人(ケルト系の一派)が入植した地域であり、現在も

その子孫が居住しています。ノルマン人(北方ゲルマン系)とケルト人が隣り合って

住んでいた訳ですね。





ノルマンディ公国

"File:Duche de Normandie.svg." Wikimedia Commons, the free media repository.

29 Nov 2016, 00:13 UTC. 31 Mar 2019, 05:28 <https://commons.wikimedia.org/w

/index.php?title=File:Duch%C3%A9_de_Normandie.svg&oldid=223573953>.


左の2つの小さな島、ジャージー島とガーンジー島(共に伊豆大島ほどの大きさ)は

現在も英国王の私有領です。共に島の名の乳牛で有名ですね。






 ノルマンディと聞くと、第二次世界大戦の戦況転機の突破孔となった連合軍のノルマンディ上陸作戦を想起する方も多いだろうと思いますが、イギリスの対岸のヨーロッパ大陸側の領域名です。現在のフランスの領土のドーバー海峡に面したノルマンディ地方は、11世紀にはフランス人の領土では無く、北方ゲルマン系(ノルマン人と呼ぶ)の入植地であり、当時の英国国王の従兄弟を領袖に据えた王国、ノルマンディ公国を形成していました。まぁ、英国の殿様の親戚が海外領土県で殿様を務めている様なもので、日本で言えば、蝦夷地に藩を構えた松前藩の様な感じでしょうか。但し、血筋は北方ゲルマン系のヴァイキングなのですが文化的にはフランス化し喋る言葉もフランス語です。余談ですが、現在のフランス人自体がラテン、ゲルマン、ケルト系の混血で、特に北半分ではラテン系の血が特別濃いとは言えません。

 西暦1066年9月、英国本国の殿様が世継ぎが出来ない件に乗じて、ノルマンディ公国の王、ギヨーム2世が今度はオレが殿様になって遣ると英国に渡り、僅か3ヶ月で王位を得る (ウイリアム征服王 William the Conqueror の名で即位、母親はフランス人庶民)と 同時に、これまでの英国貴族も次々と大公国の配下の貴族と入れ替えてしまいました (ノルマン朝の成立、ノルマン・コンクエスト)。日本ではこの3年前の1063年、康平5年に朝廷側の藤原頼義が陸奥国の土着豪族安倍貞任 (陸奥国を朝廷から半独立的に統治していた) を破り前九年の役が終結したばかりです。このおよそ120年後の1180年には頼義の子孫頼朝が鎌倉幕府を打ち立てます。日本史も世界史的な視点から眺めると俄然面白くなりますね。






https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bayeux_Tapestry_scene57_Harold_death.jpg

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/

bb/Bayeux_Tapestry_scene57_Harold_death.jpg

Myrabella [Public domain]


ヘイスティングスの戦い(1066年)で戦死した馬上のハロルド2世。

アングロサクソン人の最後の王です。目を射貫かれて死んだ

との説も伝えられています。Harold : REX: est interfectus.

= The King Harold is killed. と刺繍されています。




国立国会図書館デジタルコレクション

前九年絵巻物第7巻から

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2573531?tocOpened=1

(塾長が切り抜き後に色調補正を加えた)


こちらの方も弓矢がメインですね。烈しい殺し合いです。

イングランドでは馬上から弓を射る風習は無かったのでしょうか?

本邦ではこの伝統は現在に至るも流鏑馬として各地に伝えられています。






 ノルマン・コンクエスト以後 300年の長きに亘り、民族ではなく文化上のフランス人であるノルマン人が英国の支配階級として君臨し、当然のこととして、世の中の支配に纏わる文言や文書は全てフランス語が利用されることになりました。高度な概念の言葉の導入が図られたと言う訳です。征服と同時に文化ももたらした点に於いては幾らかローマ人には類似しますね。一方、英語は一般庶民の言葉として統制もされず、この間に動詞の格変化なども簡略化が進行して行きました。その代わりに前置詞を添えるなどして、格変化の代用をさせることも進んだ筈です。言わば「てにをは」で補完する策ですね。因みに、英国国王は普段は対岸のノルマンディ公国に滞在し、そこから英国本土に睨みを効かす統治です。松前藩が幕府に成り代わり、津軽海峡を挟んで蝦夷地側から内地を統治する様なものです。

 征服王の子孫が女性問題を起こし、フランス本国側と争いになり大公国の領土を失いはしました (1204年)が、実は当時は現在のフランス領土に相当するところは完全に現在のフランス人が掌握していた訳では無く、ノルマン人は大公国以外の各地に領土 (or 親英派の土地)を持っていました。イングランド王が支配下に置こうとしたスコットランド王がフランスに亡命してフランス王家の庇護下に入ったことから、またイギリス王が自分にはフランス王家の血筋が入っているからフランス王の継承権があるとフランス王の跡目争いに乗じて主張もし、戦争を仕掛けます (100年戦争 1337年 - 1453)。英国軍が大挙して大陸に渡り戦争勃発となりましたが、英国は敗退し、現在に至る英仏おのおのの領土並びに国境がこれで確定されました。






William the Conqueror

British Library

征服王ウィリアム(ノルマンディ公国王、ギヨーム2世)

https://www.bl.uk/people/william-the-conqueror

トランプのキングの絵柄が思い浮かんでしまいました。






 大公国を失い、英国に引き揚げた王族や貴族は、100年戦争の勃発もあり、次第に英語を再び使い始めます。フランスとの対立が先鋭化する中で嫌仏の感情が強まり、これに併行して<国風文化>を醸成しようとの民族アイデンティティ確立の機運も高まっても来ていたのでしょう。

 既に簡易化されていた英語にフランス語からの大量の借用語がミックスされ、現在の英語の基本の形が斯くして作られるに至りました。格変化も少なくなり簡素化された上に、ラテン語由来の高度な概念を表現し得るフランス語の語彙を得て、英語がこの先世界語として普及し得る素地が整ったと言うことでしょう。ノルマン朝は英語熟成の面では結果的に良い仕事をしたと言うか、まぁ、いいとこ取りの言語の誕生です。大和言葉の統語(=文法)+漢語の組み合わせの日本語の成立に似ていなくもありませんが、非漢字圏の学習者には漢字の途中習得が甚だ困難ゆえ、英語と異なり日本語の普遍化は厳しいと思います。

 この少しあとで、今度は大母音推移 Great Vowel Shift と呼称される発音上の一大変化が進行しましたが、これは既に本コラム、発音と綴りの乖離の項にて触れています。

 言葉を学ぶことは歴史を知ることそのものであることがお分かり戴けたのではと思います。しかしながら今回は戦争の話ばかりとなってしまいました。

 今年の塾長コラムはこれが最後となります。皆様、どうぞ良い年をお迎え下さい!